昭和45年9月1日 月例祭 19分と17分
信心の焦点にさせて頂こう、お願いをさせて頂いていますことは、すべてのことを有り難うございますと受けて行けれる自分になろうということでございます。
全てのことを有り難うございますと、受けて行けれる自分になろう、そこに焦点をおいて、本気で有り難うならせて頂くおかげを蒙りたいと思います。
有り難いこともあれば、あり難く無いこともある。これはもう信心があってもなかっても同じ事。ですから、信心をさせて頂く者が有り難く無いと思うていること、嫌だと思うていること、または難儀なことだなぁと感じていることがですね、その有り難く無い、言わば、難儀なら難儀の本当の姿と。いわえる、難儀の実体と。いわば、天地の親神様のお心を分からせて頂くところから、その難儀の実体が分かります。
そこから、今まで悲しんでおった、悲しみの涙も有り難い涙に変わって来るわけであります。どうでも一つ、そこのところのおかげを頂きたい。これはいつも申していることでございますけれども、そこのところにいよいよ焦点をおいて、いわえる全てのことでございますね。すべての事を有り難うございますということはね、心の底から有り難うございますと、お礼の言えれる自分にならせてもらう稽古を本気でさせて頂こうということです。
様々な人間関係などの、一番難しい問題でございます。まぁ難儀といや、様々有りますけれども、金に難儀をしておる。金さえあればとね。家も金もいらん物はいらん。本当に自分を助けたい下さればね、この病気から救うてさえ下されば何もいらんと。まぁ言うほどしに、病気の難儀に恵まれている人もございましょうね。
家庭の様々なとうかつね、それこそ色んな問題が絡みに絡んで、それが一つの問題、いわば人間のいよいよ苦しみのいよいよ作っていく人間関係。そういう一切の原因というか、その元というかそれはどういうところから出来てきおるかというとね、それを究明していきますと、人間の我情意欲から生まれております。一人の我情意欲がね、もう二人、3人、四人、五人、一家中いや社会にまでそれが及ぼしていく。いわえる、とうかつですね。かずらのように。そういう事になる。人間の我情意欲というのは。
ですから、例えば一つの問題がありましてもです、はぁ自分のこれは我情であった、意欲であったと気付かせてもろうて、その我情意欲がはずれていくおかげを蒙るときにです、もうそこには問題は解消いたしております。いや、むしろ有り難うございますと、お礼を申し上げねばならないことに、このように悩んでおったということになるのですね。
ですからそういうような究明の仕方なんですね、そこから全てのことが有り難うございますと、お礼の言えれるおかげを受けられるね。そこに極楽がある。
今朝から、朝の御祈念の後に今夜の「 」さんがお参りをして見えて、先生先日から、嫁が私にこういうことを尋ねます。お母さんだいたい金光様の信心ちゃ、一口で言うとどういうことですかと。中々一口で答えるのは難しいですよね。まぁいかなるのごちさま、ちょっとさぁどう答えようかと思われた。
もちろん心に金光様を念じながら、だいたい元そうが学会で信心の稽古をしておった嫁であります。ですから、自分が嫁ってくるそのぐつ一家も、自分の芯であるひろきさんも、そうか学会に入れたいというぐらいな熱情を持っておった人です。それがおかげを頂いて、金光様の信心の有り難さが段々分からせてもらい、本当にこの頃では、有り難い、有り難い。夫婦で親子でまたは自分が一人でお礼お届けに見えます。主人の事は言うに及ばずね。親達のこと、周囲のことをお願いして帰られる。お取次ぎを頂くことの、お取次ぎを頂いていわえるおかげを受けるという、いわえるお取次ぎの働きの素晴らしい事が段々分かって来たね。
けれども、金光様の信心のまぁ言うならば神髄とでも言う所。そういうところですね、まぁいつも求めてこられるわけです。だから中々そのそうか学会で勉強しておられますから、信心の一つの分かりが早いわけです。そこで、まぁお母さんの答えがですね、そのどういうような答えをして下さるだろうかというのが、まぁ嫁さん明子さんというけど、その明子さんのお母さんに対するお尋ねだった。
その時にね、とっさに自分の口から出らせて頂いたのは、とにかく金光様の御信心ちゃね、とにかく有り難うならせて頂く稽古よと。まぁ一言でいわば信心がある意味では色んなことが分かっているんですけどね。信心によって、究極その何を求めるかというと、人間が幸福になりたいということなんですね。
その幸福になりたいというその幸福とはどういうことかという、有り難いなぁと言うておれれることなんです。しかもそれはどのような中にあっても、有り難いなぁと言うておれれるということが先生私はこういう答えをしたんですけど、間違いなかったでしょうかっち。
もうそれに尽きるよと私は申しました。昨夜からももう三十一日には、そこで月末のお礼を皆さんと一緒に申させてもらいました。昨日は丁度、三十一名集まっておりました。お神様の前に丸く輪をかいて、私を中心にして、一時間一月おかげを頂いて参りました、有り難い、勿体無い。本当に有り難いという発表などをさせおって、天地の親神様、金光様に喜んで、神様の前で喜んで頂こうと。そしてこれからの信心を良いより有り難いおかげになっていかなければならないお話合いをいたします。
いうならば、親神様、親の前でね、親の前で親がどうすれば喜ぶだろうかと、親孝行をしたい。親孝行をしたいという親孝行な子供達が集まって、親孝行をしようという話し合いをするのですから、神様は喜び下さらんはずがないですね。そういう話がございましたが、夕べもその事、とにかく、とにかく有り難うございますと、という、その有り難うございますが、例えば月末一月を締めくくってみて、思うてみればあれもおかげであった、これもおかげであったと。本当に大変なおかげの中にこの月も終わらせて頂いたと、有り難うございますをお礼を言われる皆さんのその有り難うございますがです、一月締めくくったのではなくて、日々私共が全てのことを有り難うございますと受けて行けれる稽古を来月からさせて頂こう。これが来月の焦点になるだろうというて夕べ話したこと。
ですからその、どうでもその有り難うならせて頂く。それにはね、様々な問題がありますけれども、とりわけ人間関係ね、いわば家の中が暗くなったり、イライラモヤモヤするのはやはり人間関係から起こってくる。今日私は、ある方のお取次ぎをさせて頂いた。お話を聞きよったら、本当に話聞きよったちゃモヤモヤするのっち。あんたげんの誰々さんばっかりはというようなことでしたね。
本人も信心があるんですけど、この信心が無いのです。この頃参ってこんのですね。それで、そのお母さんになる人がその子供のことをお願いなさるしかも、その言うておること、しておることがです。もう本当にしばらくでも合楽に通って信心の稽古をした者のそれが言い方じゃろうか、ざまじゃろうかと思うようにある。だからもう向こうが向こうだから、こっちもこっちというごたる気になりますっち。ほんなこつの、と私も言うたのです。
そうしたらね、もうぱらぱらとそのまぁいうならお年寄りのきがぬけて、ぱらぱらとした髪の毛をね、もうたずねんにこうやって集めて。つばをつけては、ここへなりあげて、でここにちょっとこぉ、言うておられるところを頂いたね。
今のその息子さんの信心というのは、もう信心が薄うなってしまって、髪の毛がぱらぱらになっておると。だからそれをそのお母さんが、もうあげなんとはもう私は知りませんというたら、もうそれまでなんだね。ですから、この残り少ないわずかな髪ではあるけれども、これを「 」つけながらですよね。ここに集めて、「 」丁度お医者さんが言いなさるような髪にこぉ、ゆういあげているところを頂いた。
私はそれを頂いてから、本当に神様は限りない愛情というものがね、私共の上に掛けられているなぁと。その神様の心を心として、私共がです、人間関係の場合に、とりわけ親子、夫婦といったような場合なんかは、そういう私はその関わり合いがあるのですから。その関わり合いをそのような言わば育て方をして、あれがいっぺんおき付けどん頂かなきゃ分からん、もうかまわん。というのではなくてです。
もう、残り少なくなっている髪のけをですね、こぉつばを付けては、こぉ「 」いわえる親心でしょう、親切に結い上げている姿を頂いて、その方に申しました。本当に、あんたどんは、天地の心を心とするとか、神様の思いを分からせてもろうて、神様の思いに沿わせて頂こうと言いよるばってん、いよいよの時に、私もあなたの話を聞きよってからほんなこ「 」かけとかんね、と私も言いようたる気がする。何と言うことを言うの。その本当これはもうあんたが腹が立つのが当たり前と私も思いよるここでね。
そうしたら、神様がそういうお知らせを下さる。はぁ改めてこの神様の心にならせて頂くということをね、まずそういう時に一歩まぁその接近しておるのをひたって見て、それを思うてみる親切が、私共に掛けているなぁと思いますね。
そういう心にならせて頂いたら、人間関係が必ずすむずむに、そうしたら私までも涙が流れてくる、ボロボロそのことを頂いてから。本人の前でポロポロ流して。ほんなこつ先生そうですね。そして、一滴「 」が、よーと先生考えおりましたらですね。
子供がそげん言わば、ぶれ出したのも、よー言うと私が少しばっかりの我情意欲を言うたところから始まっておりますといわしゃっるね。給料を持ってきた、いつも給料僕なりに持ってくるその子供がです。給料袋をあけてから、これであんた家内子供を持っているそのもんがこういうことでどうするのっち。あんたが、マージャンどんしてから、また負けてから、そのこうやってもろったら。そげなんこつするならやらんと言うてから。
その「 」それから、ぶれ出した。私がその時に例えば本当にそのいつもの給料のなんぼんしかなかちゃったです、これで今月はまたお繰り合わせを頂いて、どうにか、お繰り合わせを頂いていこうと。その時の自分のちょっとばっかりの我情意欲がです、出たことから、そういうことになっているのですから、これは子供が悪かじゃなかった。私の我情意欲がと、言うて。涙ながらにお届けをされておりましたらね。
しおやの娘というお菓子がありましょうが、久留米に。あれにばいりさんが書かれたお話ですが。あの、こえた女の人がね、日本がみを言うてから、このへんに、こぉ当てたあの、娘さんが参って「 」あの絵を頂くんです。その絵がですね、こうしておらんのです、こうしてござる。こげんしてから、口に手をちょっと加えてござるという感じでした。
ははぁ、しおやの娘じゃんけん、塩を計ってでん、てにぶるということばいなぁと私は思うた。このへんの言葉にあります。皆さんはご承知でしょうか。いわえる、商売人根性ですね。商売人というものは、どういう事柄でも利益を掛けておかなければならん。それこそ塩計ってちゃ、てにぶるぐらいな根性はなからなければいかんというわけなんですね。そういう根性が、私共の心のそこに、あったんだとね。
塩計ってちゃてにぶる、それは商売人だから利益をおくことは当たり前。けれども、それはどこまでもお道の信心を元にして、お商売をさせて頂くならば。お客さんが喜んで頂く為に奉仕するね。そんして、奉仕するというのじゃない。当たり前の利益とは、ちゃんとかけてあるけれどもです。そのしおやかで、てまねぶらんで良いじゃないか。このぐらいな事は「 」して良いんじゃないか。
そういう汚い、まぁこれは商売人根性と言うのでしょうけれど、これはお互いの上にでもですね、わずかばかりのはぁそげなんことをすると水道がよけいいると。もう本当にいちいちそげなん事に「 」ところから、勿体無いから出てくるのではなくて、もう湖水ところから、汚い所から出てくる不平不足であるためにです、それが相手に響いて、そういういわばたったそういうことから、人間関係がもつれてくるのです。
ですから、例えば人間関係というものがそのような我情意欲から生まれて来るのですから、ならどういうふうにこんがらがっておりましても、その我情を捨て、意欲を捨てさせて頂いてです。本当に私が悪かったということになるところから、これが「 」くる。
もう一切をですね、ついた日、切ったというようなことでも我情意欲です。家庭の問題でも、必ず究極一つ突き詰めて見てご覧なさいませ。必ず我情意欲ですね。限りなく美しゅうならせて頂こうとかね、より豊かに大きくならせて頂いて、より大きくならせて頂こうというとか、馬鹿とアホに鳴らせて頂こうということはですね、そういう例えば信心のなかった時代のいきとない心から開放される喜びを楽しみに信心していくということに焦点があるのです。
だから皆さんどういう問題があっても、よくよく自分の心というものを反省見てごらんなさい。必ず自分の汚い心からその問題が起きておる。そしてその問題がこんがらがって、どうにも出来ないところまで進展していくのですね。我情意欲を離れて、真の大道を開き、わが身は神徳の中に生かされてある。なんと、我情意欲というものを取り外させて頂いたところに、そこに真の道がはっきりしてくる。なるほど、わが身は神徳の中に生かされてあるんだなぁというそこに極楽世界があるのだ。
そげんなら、我情意欲をはずしてしもうたならばあなた、もう「 」消してそうおじゃないね。ただ我情意欲を離れてじっとしておるということではいけませんよね。「 」意欲も徳もなか、じっとして座っている。それじゃいかんのです。限りなく自分の心を働かさねば。その我情意欲の無い、その心で、限りなく自分の心をです、あの人のために祈り、この人のために願わせて頂くというような心の状態。
ひょろっとしておるなんかって、体を動かさずには参りませんからね、けれどもできることは、自分の心を自由自在にくしすることね。自分の心を自由自在にです、それこそ世界中の上にでも、それを広げていくことができるのだ。
今日私ここで頂きました、ある事の中にね、先ほど総代さんが発表しておりました、今度信者集会ですか。いわえる、これは「 」の御信者方が、七百。
各教会から、何名かです。その何名かの中に合楽教会から「 」さんが代表でお話をしてくれというわけでございます。先日から、そのお話になる原稿を寄せてくれという通帳を受けておりましたから先日まぁ一生懸命でたくさんの原稿を書いて、持って見えられましたから私はそれを一読させて頂いた。
本当に合楽で言うておる、いわえる合楽言葉ですかね。合楽で言うておる素晴らしい言葉をまぁつづりてある。まぁ文章として立派な文章だ。けれどもこれ、「 」さん、いっちょんイキイキして、感動するところが無いね、と私は。読んでと例え言うても。ただ美しい言葉がられつしてあるに過ぎないというような感じがする。これは「 」さんあんたの本当の赤裸々な信心がおり込まなければダメだと、私がちょっと文句を言うたもんだから、それなら書きなおしましょうというえ、一晩中いっすいもせずに、事務所でその書き上げられた。
そして自分がおかげを受けてきてからこの方のことを書かれた。私はそれを今日持って見えてここで読ませて頂いて降りましたら、もう途中で何回もおいつして、もう声でも出しているならば、読めないと思われるほどに感動いたしましたね。
書き出しに、私は恋にやぶれたという、しつれんしたということが入信の同期だと。それは本当の意味においての信心の同期。本当言うたら、高校時代に毎日一生懸命参ってきました、そして確かに広大なおかげを頂いて現在のところに就職のおかげを頂いて、小倉に参りました。それをおかげを頂いた、おかげを頂いたと言いよったけれども、いわえるその本当のところじゃないもんですから、小倉へ行って7年間ですか。その間の空間が全然信心が出来てなかった。その間にある女性と恋愛に落ちた。そしてそれが、もらおうということになって、もう「 」で済ますというようなところまでやらせて頂いているところから、ある事情で、そのそれがはじょうきになった。そこから、それこそまぁにたいしておられた相手からそういうふうに言わば断れたわけですから、その恋の失恋のいたでです、どうにもこうにも「 」持っていくどころの無い。それがふっと七年前の信心を椛目時代の信心を思い出してお参りしてきたのが、いわば私の信心の同期だと語っております。それから、信心が本気でうつ向かうことになり、「 」の家のめぐり。もう私はそのことをづっと「 」さん流に、あの赤裸々に書きつづっておられるのを見せて頂いて、まぁなんとめぐりということの恐ろしさをね改めて、いつもお取次ぎをさせてもらっているけれども、それを読ませて頂いてめぐりの恐ろしさを始めて感じた。
しかもそれに気づかせて頂いてです。もし自分が無かったら、やはり「 」の家に残っているこのようなめぐりに、災難までになって、なるほど親先生が言われるように、一生自分というものを「 」にしてしもったであろうと、思われるような難儀である。
そこからね、おかげを受けて参りましたその、生き生きたいわえる信心のおかげの状態が書きつづってあります。しかも自分の話をされる口調でね、だからそれをお話をすると、すぐ大変興味のあること、興味というか(笑い)有り難いんですけど。
それはね、本人「 」さんがね久留米の会場で七百名の言わば信奉者を前にして、そして合楽の信心を自分の信心で血肉にした、そういう信心をです、皆さんに発表されるそれをちょっと聞かせて頂こうと思うのです。
皆さんもどうぞそういう意味で是非一つお出かけ頂きたいと思いますね。おそらくあの話がね、たくさんの人の心を打つことでしょう。おそらくそれがパンフレットにもなることでしょう。本部当たりにも必ず行くことでしょうね。そして合楽の信心がまた一段とクローザップされる元を作るほどしのものをその内容が持っているということをね、私は有り難いと思いました。
それを読み終わらせて頂きましたら、ここで私は頂きますね、合楽の祈りが全世界の、全人類の一人ひとりの上にですね、成就に相成りますようにという意味のことでした。合楽の祈り。合楽の祈りはです、合楽の祈りがね、世界全人類の祈りになりますように。そのように、全人類の祈りにまでも高められるだけの内容をもっているのが全合楽教会で「 」信心の稽古をしている内容だと私は信じておりますね。
昨日、伊万里の竹内先生がご夫婦「 」で、御参拝になりました。東京で、市長さん方の会合があったんです。その会合が東京の、あそこは何と言うところでしたかね、「 」であった。もうそれこそ日本の全日本のトップクラスの方が講師で、市長さん方を全日本中の市長さんを集めての講演であった。先生私はこの度、その講演を聞かせて頂いて、合楽の信心の素晴らしいことを改めて感じさせて頂きましたと。
合楽の信心、いわえる金光様の御信心というよりもです、合楽の信心がです、全宗教のもう先端を行っておる、トップを行っている信心だということをいよいよ確信いたしましたというて、それをまぁ前置きしてから話されるんですね。
それはどういうことであるかというと、いわえる政治家に対するお話ですから、政治ということ。昔はいわえる、昔の昔はですね、金ときさんのように力を持っている人ね、その力持ちの人が力で納めた時代だった。それから段々年を経ていわえる財、物ね、たくさんのお金を持っているいわえる財閥が、おさめるという時代が生まれてきた。
様々ないわえる「 」をへながらです、現在ではです、情報化時代ということが言われる。その情報化時代ということはどういうことかというてです、その情報化時代ということの内容について話があった。その情報化時代というのはね、親先生がいつも言われる御事柄を大切にするということだということじゃった。
甘木の初代は恩物を大切にされた。一すくいの水でも、一粒の米でも、神様の恩物ばいいや、それは水やらお米ではない。枯れは一枚、枯れ枝一枚でも天地の親神様の恩物であったとしておい出られた。いわえる恩物の時代がもう今の宗教からは次ぎ去った、過去のものになったということ。
恩物、だからそれはもちろんそこのところを踏まえられて、力もいりましょう、財も物もいりましょう。けれどもそれはもう過去のもの。けれどもそれを過去のものを踏まえていわえる、恩物。恩物ではなくて、恩事柄を大事にするということ。情報化時代というものの神髄はそれがすごい。私共は初めて昨日聞かせて頂いたね。
そういう時代、そういう事柄をですね、いよいよ大事にする生き方にならなければ世は治まらないという時代にまで来ておるということです。力でいかんものじゃから、金ではいけん。それを聞きながら竹内先生が感動された。いや、自分達が日々頂いている親先生のあの御理解というものがです、いかになるほど、金光教じゃない、もう全宗教のトップを行っている教えを合楽では説かれているんだということなんですね。
今年に入って私が和賀心時代に突入したね、もう和賀心でなければね、この世は治まっていかない時代に突入したんだね。そのことならばです、世界人類の誰にでも信心があろうが、無かろうが、かんで含めるように話して聞かせば分かるんだと、この内容なら。しかもどのようにこうしゃないうならば信心をしている人にでも、これならばなるほどと合点がいくのだ。
そういう内容を持っているのが、合楽の祈りだと私は思います。「 」さんが今度お話をいたします、広大は「お役に立たせて下さい」という祈りで、広大の元に話をするんです。一般では世のお役に立とうとか、世のお役に立ちましょうとかといったような、ことです。
いかに世のお役に立とう、立とうと言ったってちゃ、力もなしに、どうしてお役に立つか。それよりも、合楽で言っている、世のお役に立たせて下さいという祈りなんですね。失恋からね、その痛手が信心になって、それから次々と新しい新たな、信心、今まで道の世界というか、今まで知らなかった信心の世界が開けてきておる。本当にその失恋のおかげによって、このようなおかげを信心を頂いておりますというところで閉めくってあるのですね。その失恋が生きてきているね。
そういう生き方がです、人間関係の上にでも、経済問題の上にでも、肉体、例えば病気といったような、様々な難儀の上にです。私共はそういうおかげを頂かせて頂いていくところからね、そういうまぁ私が今日申しましたような祈りの内容としてですね、そういう祈りの内容というものはいわえる、それが言うならば、合楽の祈りであり、願いであり。それをまた「 」今月はですね、全てのことを有り難うございますと、お礼が申し上げれれる、有り難うございますと受けて行けれる自分にならせて頂く稽古を今月は一つ本気でさせて頂こう。そういう祈り、そういう信心をです、言わば人類の全てにね、そういう祈りを持ってもらう、そういう祈りを掛けてもらう。人類の全てがそういう祈りの中からです、世界真の平和を目指していくという大変な大きなおかげを目指しての信心になってこない限りです、世界の平和は望めないね。
そこでまず私の心から、どのような事でも有り難うございますと受けて、言わば立たれる信心。為には、その問題と思っている人間関係、経済を全てのそのことの元というものをです、「 」で見つめさせて見ると、自分の心の中のです、いわえる我情意欲が元になっておるのであり、親切の足りないことが問題が問題を生んでいるのであり。
そこに一度気付かせて頂いて、神様の前にお詫びをさせてもらうところからです、お礼を申し上げねばならん、有り難うございますと言わなければならんところを悲しんでおった自分が嘘のように、有り難い、地獄から極楽に救われているようなそこに光明を感じます。
そういう光明の世界、光明の光を目指して私共は信心の稽古をさせて頂く。それをまぁ言うならばね、今月はその基礎になるもの。全てを喜び、全てを有り難うございますと受けれる、その問題、事柄というものは、どういうこんがらがった問題でも良い。その問題の実体というものを究明していくとです、結局は私の我情意欲の中からそれは作り出しておったんだということになるね。
電信柱が高いのも、郵便ポストの赤いのも皆私が悪かったんだということになるんですよね。そこからね、私は全てを有り難く受けさせてもらえれれる、有り難うございますといえれる自分になれる稽古の足がかりをです、そのようなところから求めていきたいと思うております。
どうぞ只今申しました、あの久留米の信者集会のこと。どうぞその日は繰り合わせて頂いて、時間「 」で出切るならば、もうなるべく前の正面で皆さんの体験発表に行かせて頂こう。先生のお話も聞かせて頂こう、と思います。どうぞよろしくお願いいたします。